今回、犬山城に行ってきましたので、その様子をご紹介します
犬山城とは
織田信長の叔父、織田信康 によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。
織田信長が稲葉山城(のちの岐阜城)を攻めたとき、織田軍として戦った織田信康が戦死
子の織田信清が犬山城を継いだが、信長に敵対して逆にやられてしまいました
昭和10年、国宝に指定され、昭和27年規則改正にともない国宝に再指定されました。
犬山城 行き方
名神道小牧IC または 中央道小牧東IC から車で約25分
今回は、小牧東ICから犬山城へ向かい、第2駐車場に停めました
詳細は Google地図 をクリック
犬山城 下町きっぷ
電車利用の方は、犬山駅までのきっぷと犬山城入場券をお得なセットも
犬山城 本丸へ
ここから徒歩で上がり、本丸を目指します
途中にある三光稲荷神社
江戸時代に犬山城の城主を務めた成瀬家の守護神とのこと
使いの狐さんがお出迎え
ピカピカの赤い門が立ち並び、映えそう
ハート型の絵馬があったり、縁結びとしても人気のスポットのようです
さらに石段を上がっていきます
このあたりの石垣も、意外とみどころだったりします
入場門の手前に券売所があり
ここから先は、入場券(大人500円)が必要となります
犬山城
入場門(隅櫓)を抜けると本丸で、すぐに天守が見えてきます
望楼型 三重四階地下二階(石垣内)の天守
附櫓(つけやぐら)は、天守の入り口が敵兵に破られそうな時、側面から攻撃を加えて防備
石落としは、石垣より突出しており、石を落として石垣からの侵入者を防ぐ
石垣は、大小様々な石が積まれていて、野面積み(のづらずみ)と呼ぶそう
ちなみに、本丸の石垣と空堀のみが現存しています
本丸は木が植えられた広場になっていて、休憩するスペースもあります
天守入場までは90分待ち!
子供もゴネはじめたので、天守入場はあきらめます(泣
5月にしては異常なほど暑かったですし
犬山城 100名城スタンプ
100名城スタンプは、入場門(隅櫓)の2階にある管理事務所の窓口にあります
管理事務所の入口はこちらです
本丸側から階段で2階に上がると管理事務所があり、窓口にスタンプがあります
ちなみに、登城記念スタンプは、門の裏側にありますよ
犬山城 御城印
御城印は、犬山城観光案内所でのみ販売しています
第一駐車場のとなりに、犬山城観光案内所があります
白帝城というと、蜀の劉備玄徳が没した城のイメージが強いので、やはりノーマルな犬山城のほうで
期間限定の「小牧・長久手の戦いゆかりの地」仕様の御城印
犬山城の御城印帳もお土産で購入
犬山城のポストカード付き
ほかにも、国宝「松本城」「松江城」「彦根城」「姫路城」のポストカードが付いていました。
犬山城 グルメ
場内にある、お土産店(白帝観光)、きしめんやどて煮などの軽食を食べることができます
犬山城 城下町
名鉄犬山駅から犬山城までの、城下町(本町通り)には地元の特産品を扱うお土産屋さんや飲食店が多数あります
味噌煮込みきしめんや味噌豆腐、鮎料理など郷土料理が味わえるお店
GWということもあり人であふれていて、特に若い人が多かった印象
伊勢神宮の参道「おかげ横丁」に匹敵する人の多さでしたが、通りの幅が多少広いので、まだ歩けるかなという感じでした。
犬山焼のお店を見たかったのですが、ワンちゃんが怖くて入れず
子供向けの催しもたくさんあり、お城より城下町で遊んでいるほうが楽しかったようです
子供たちは、城下町で楽しんでもらって、お父さんは天守をゆっくり見学するのも手ですね
犬山城 動画
現存十二天守(現存天守)
現存十二天守は、江戸時代以前からの天守が現存している日本の城
必ずしも、創建当時の建物をそのまま保存されているものということではなく、修復や改築などを経て現存する天守を含みます
- 弘前城(青森県)
- 松本城(長野県)国宝
- 丸岡城(福井県)
- 犬山城(愛知県)国宝 ★済み
- 彦根城(滋賀県)国宝
- 姫路城(兵庫県)国宝
- 松江城(島根県)国宝
- 備中松山城(岡山県)
- 丸亀城(香川県)★済み
- 松山城(愛媛県)★済み
- 宇和島城(愛媛県)
- 高知城(高知県)★済み
犬山城で 4城 制覇です
国宝犬山城
犬山城のホームページでは、以下のように紹介されています
天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子 織田信清が城主となりますが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。
その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の 小笠原吉次 が入城。
江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣 成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。
以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。
お読みいただたき、感謝いたします 🤗